遠藤拓也と申します。(略してえんたくです)
慣行農業、有機栽培、自然栽培などの栽培の研修を各地でやってきた百姓です。
現在は農業と食を健康を組み合わせた場を宮崎に作るべく、畑をしながらWeb系の勉強をしています。
生い立ち:1989年9月8日に千葉県千葉市で生まれる。 現在29歳
父親の病死によって母方の家族がペンションをやっている、福島県の南会津郡へ小学2年生の時に引っ越し。
高校卒業まで標高1000mの山奥で育つ。大学は埼玉県の城西大学経営学部へ進学。
大学4年の時に畑を借りて野菜を育てる楽しさを実感して農家になろうと、コネで農業の勉強ができる長野県の肥料の会社へ就職。
肥料と農薬を使う農業ではない農業をしたいと思い、半年で辞めて埼玉県で自然栽培の研修を始める。
2年以上研修した後、徳島や千葉等で研修をしたり実際に有機栽培をして、移住先を求めて2016年の1~3月に西日本を中心に放浪の旅をした後、勢いで高知県の本山町(嶺北地域)へ移住。
限界集落での暮らしをしながら、生き方を模索してその後住むところを点転々として、現在はフリーランスの聖地、千葉県の富津市の金谷に住んでいます。
- 生まれた育った千葉県千葉市(小学校1年生まで)
- 現在の実家がある、福島県の舘岩村(現、南会津町)
- 通っていた大学のある埼玉県坂戸市
- 就職先の長野県の西軽井沢
- 自然栽培の研修で行った埼玉県桶川市
- 愛知県豊橋市
- 徳島県石井町
- ブラウンズフィールドの農スタッフをしていた千葉県いすみ市
- 移住して住んだ高知県の嶺北地域にある本山町
- 農業生産法人の手伝いで住んだ高知県の四万十町
- リゾートバイトで行った長崎県雲仙市
- 酒蔵の仕事をしに行った鳥取県の江府町
- 友達の紹介で行った宮崎県の宮崎市
- Web系の勉強のために移住した千葉県の富津市の金谷
目次
イジメられていたけど人を助けたいと思った原体験

小学1年生で入学した4月末に父親が病気で死んで、学校を1週間休むことになりました。
その時に幼稚園の頃から友達だった人たちが敵になり、イジメというか嫌がらせをしてくるようになったんですよね。
イジメが原因で人が信じらなくなり、人が嫌いというか苦手になりました。
今は人が嫌いという感じではなくいろんな人と仲良くしたいなぁと思っていて、なぜそう思うようになったのかというと、いじめられていた時に僕をかばって助けてくれた女子がいたからですね。
助けてくれた女の子は父親が単身赴任で海外に行っている子でした。
お父さんがいないことで周りから言われていたみたいで、自分が辛いことをされた分、似たような境遇でイジメられている人を放って置けなかったと言っていました。
人の気持ちがわかって、助けてあげられる存在になりたいなぁってそのとき漠然と思ったんですよね。
人を助けたいと思う僕の原体験となった経験です。
いじめられていた時に助けてくれた女の子と、出会っていなかったら自分はどうなっていたんだろう。
「あなたがいてくれてよかった」と思われる存在になりたいですね。
少人数の学校に引っ越して人を観察するのがクセになった

父が亡くなったのがきっかけで、母方の家族がペンションをやっている福島県の山奥へ引越ししました。
転校先の学校は同学年が10人で、千葉にいた時の小学校では7クラス、35人が同級生だったので衝撃でしたね。
友達だと思っていた人が敵に回る怖さを味わうなら、最初から無関係でいた方がいい。そう思って人と関わるのを避け続けました。
めっちゃ周りの目を気にして「この人は自分に害を及ぼさない人か?」と観察するのが癖になりました。
趣味趣向が合う同級生がいなかったのも影響があったかもしれません。
同級生は休み時間になると体育館や外で遊んでいる子しかいなくて、僕は一人で図書館で「チョコレートの秘密」とか「エジソンの偉人伝」などの「〇〇の秘密」や「〇〇偉人伝」みたいな本を読んでいました。
自分に意思に関係なくやっていた小学校のクラブ活動

田舎の少人数しかいない学校だったので、クラブ活動を存続させるために、自分の意思に関係なく全員強制参加だった。
男子はソフトボールで、女子はバレーボール。
それ以外に祖父が剣道の先生だったから剣道も強制参加。
自分の意思が伴わないことに対して拒否反応が強く出るのは、この頃の経験があるからかもしれない。
人を引っ張っていくタイプではないと感じた部活動

小学生の時は祖父が剣道を教えていたのもあって、剣道の部長をやることになりました。
田舎の学校なので人数が少なくやる人がなかったのもあって、年が上という理由だけで中学生の時は卓球部の部長をやることに。
部長という役割を与えられたので、向いてないなと思いながらも人を引っ張るように努力していました。
けれども、人の上に立って指示を出すのはプレッシャーを感じるし、何か違うなと感じていたんですよね。
部活動で部長をする中でも楽しいなと感じていたのが、新しく部活に入ってきた新入生に基本動作などを教えている時。
後輩や新しく部活に入ってきた子に教えて、強くなっていくのを見るのが好きだったんです。
高校に入ってからは部長という役割ではなかったけど、人に教えている時が特に楽しかったですね。
卓球の経験がない子にいろいろ教えている時に、教えるの好きだなと感じました。
リーダよりもコーチのポジション。僕は人を引っ張っていくポジションは違うなと感じていました。
人を引っ張っていくことが苦手なのは今でも感じることで、リーダーシップを発揮するよりもサポート的なポジションが好きです。
高校の時に食料問題、タネの問題に気づいた
高校生の時に授業の調べ物をしている時に、インドで起きた棉農家の大量自殺の事件を知ったんですよね。
遺伝子組み換えのタネの特許料金や、高い農薬の代金が干ばつが起きた年に収穫が減って払えなくなるという事件。
収穫が減ったため収入が減り、借金が払えない農家が大量に自殺したことをネットで見つけたんですよね。
その時に、もし食料で同じようなことが起きたら、世の中の人は飢えで苦しむかもしれないと漠然と感じたことを覚えている。
一種類の作物だけを育てた時に、気候変動のよる干ばつや、虫の大量発生などで収穫ができなくなったらやばいなと。
実家でも少し家庭菜園をしていたのもあって、美味しいものが食べられるという環境だったんですよね。
美味しいものも食べられるし、田舎で仕事をするなら農家もありかもなと漠然と考えていた時期でもあったので、インドでの遺伝子組み換え作物で大量の自殺者が出た事件は印象深く残っています。
インドでの遺伝子組み換えの棉の事件の引き金となっていたモンサントという会社は、遺伝子組み換えのタネで世界中の食糧生産に関わろうとしていてヤバいなと漠然と感じていました。
モンサントは僕の高校生の頃からM&Aなどを繰り返し大企業になっていて、莫大な資金を持っていたのでどうしたら太刀打ちできるのかを考えたりもしていたんですよね。
そんな時に祖父から「金持ち父さん、貧乏父さん」という本を「読んでみろ」と言われて読んだんですよ。
「金持ち父さん、貧乏父さん」の中ではビジネスオーナーや社長になることで、お金をたくさん稼ぐことができると書いてあって「社長になろう!」と大学は経営学部の学校に行こうと思っていました。
お金があればいろんなこともできるし、社長ってなんかかっこいいじゃないですか 笑
勉強するのが苦手だったので、自分の学力(評定平均)で行ける大学に指定校推薦をもらって、推薦入試で大学へ通うことになりました。
自分を変えたいと思って行動していた大学生時代
高校を卒業した頃までの自分は生きる意味を見出せず、死にたいと思うことが何度もありました。
田舎では何かやろうとしても近所の目や、家族の目を気にして空気に流される人間だったんですよね。
周りに流されるだけで自分では何もできない…そんな自分のことが嫌いでした。
家族の監視の目もない都会にある大学に進んで強く思ったのは、「自分を変えたい」ということですね。
イジメられたことによって人を避けてきたことや、人の目を気にしすぎな自分を変えたい。
少しでも理想の自分に近づけて人生の幅を広げたい。
嫌いな自分を少しづつでも変えたら、自分のことを好きになるんじゃないか?
そう思って大学生活は過ごしました。
自分の見た目が嫌だったからダイエット
まずは見た目を変えたいと思いました。一番「変わった」と実感しやすいことですからね。
高校卒業時98キロあった体重を1年半ぐらいかけて68キロまで落しました。
右がBeforeで左がAfterです。だいぶ変わったと思いませんか? 笑
その後もリバウンドすることなく、70kg〜75kgの体重をキープ。
自分のことを嫌いで何にもできないと思っていたけど、自分で考えたことや行動によって現実が変わるという成功体験を味わえました。
ダイエットでの成功体験がなかったら、ほかのことに挑戦したいという意欲は起きていなかったかもしれません。
文化祭実行委員に入ってみる
今までは委員会とかめんどくさい…と思っていた自分も、大学でわざわざ委員会活動をしたら何か変わるんじゃないか?と思って文化祭実行委員会に入りました。
と言っても、きっかけは勧誘してきた先輩が美人だったのと、出会いがあるんじゃないか?という下心が満載だったのですが 笑
結果からいうと出会いとか特にありませんでした 笑
高校までの自分は他人を避けてばっかりだったので、コミュ力の観点からスタート地点にも立てていなかったんですよね…
でも高校まで友達がろくにいなかったので、近所に住む友達ができたのは嬉しかったですね。
文化祭実行委員会に入っていた2年間は「大学生らしい」生活をしていたと思います。
飲み会でウェイウェイして終電逃して、朝までカラオケに行ったり、歩いて帰ったり。
友達に誘われてパチンコ三昧、授業はだるいのでゲームをして過ごす…などなど。
最初は今までと違うことをしてる!と思っても次第に「何か違う」と思うことの連続になっていきました。
インターネットビジネスの社長に弟子入りをする
高校生の時社長ってなんかカッコイイし、お金持ちになりたい!と思って経営学部へ進むことにしたけど、授業を聞いているだけではなれないとどこかで思っていました。
そんな中、当時流行っていたSNS「mixi」を通じてインターネットビジネスの社長と知り合ったんですよね。
2009年ごろのインターネットビジネスの世界は、胡散臭さの塊でした。
与沢翼が「秒速で稼ぐ」とか言っていた時代ですからね…。
それでも社長になりたいと思っていたし、何か自分を変えられるんじゃないか?と思って年収1億のインターネットビジネスの社長に弟子入りをしました。
1年間で36万払うことになったけど。 苦笑
アフィリエイト、転売、セミナーなどを手掛ける社長で、ビジネスのことももちろん教えてくれました。
けれども、特に勉強になったのは一緒にいることで起こる価値観の変化でした。
深夜に土砂降りの中、自転車で4時間かけて東京に行くことになったり、峠でスタントマンごっこして車にひかれたりと理不尽なことが多々あったけど、僕の中の「普通」や「常識」と思っていることが当たり前ではないということを学んだ気がします。
良い意味で自分の枠を壊せる出会いだったなぁと。
社長のそばにいて、お金をモチベーションにして自分は仕事ができないということに気づきました。
お金をモチベーションに頑張れない人間は社長に向いているのか…?と考えるようになりましたね。
インターネットビジネスの社長に支払いがあるのと、社会勉強にもなるのでいろんなバイトをしながら「自分は何がしたいんだろう?」と自問自答する日々が続きました。
就活の時に東日本大震災が起きる
大学3年生の1年間はインターネットビジネスの社長の元にいて、気づけば大学4年生。
就職活動を始める時期になっていました。
社長に弟子入りしたけど、社長になれるようなことは何もできていない。
家族の期待もあるし、頭に浮かぶのは「就職」の2文字。
いろんなバイトをしてみたけど飽きっぽい性格のためか、就職しても続けられる気がしないし、興味が持てる仕事もない。
とりあえず同級生たちと同じく、合同説明会や企業説明会に行くだけの日々になっていた。
やりたいことが決まっているわけでも、熱意もないので企業にお祈りメールを送られて「なんのために生きているんだろう?」と深く考えるように。
そんな時、企業説明会を受けている最中に東日本大震災が起きた。
電車が止まり東京で帰宅困難になったために、避難所になっていた大学へ避難することになったんですよね。
スーパーやコンビニなどで食料品がない状態になって、高校生の時に思っていた「食べられなくなる日が来るかもしれない」が現実に起きていたんです。
その当時のことをnoteに書いたので興味がある方はみてみてください→「あの日僕は東京で就活をしていた」
被災地のボランティアにもいきましたが、津波で家族が流された人の話を聞いたり、更地になってしまった土地などをみていく中で「人生いつ何が起こるかわからないな」と思いましたね。
東日本大震災がきっかけで「食べ物を自分で作れた方がいい」「いつ死んでもいいように、やりたいことをやりたい」と思うようになりました。
震災がきっかけでやりたいと思っていた農業を始める
福島県の田舎で育ったのもあって、自然と共に生きたい。田舎で自営業で暮らしたい。それなら農業かな?と思っていたので農業を経営学部ながらやってみました。

この時の経験から農業って面白い!農業で食っていこう!と思い、その当時知り合った肥料会社の社長の下で働くことにしました。
大量生産、大量消費型の農業に疑問を覚える

就職した肥料の会社は長野県にあり、高原レタス、夏の白菜、群馬県の嬬恋村のキャベツの農家が肥料の売り先の会社でした。
いわゆる長野県産レタスと群馬県産キャベツ、夏でも売っているキムチなどの加工品用の白菜の一大産地へ行ったわけです。
スーパーでよく見ると思います。長野県産レタスと、群馬県産キャベツ。
そこの現場で行われている大量生産、大量消費型の農業に触れて、自分の中で「違うな」と感じてわずか半年で退職。
市場の価格を維持するために畑にある野菜の30%を出荷させないような、村内放送が流れているところもありました。
野菜を作っている農家さん同士でも、他の地域で天候不順で出荷できなければいいという人もいたのが、ショックでしたね。
価格の維持を維持して、自分の収益のことばかりを考えている人が多いことや、せっかく育てた野菜を捨てなければいけないということに違和感を感じていました。
農薬を使わず、自然と共に生きる農業がしたいと思って自然栽培の研修へ
肥料会社を辞めて、知り合いのつてで自然栽培の研修を始めました。
高校の後輩の紹介で埼玉県で自然栽培をしているところで研修スタート。
朝から夜まで農業という環境に2年以上いました。
朝から夜まで農作業だったので体力的にもキツかったのですが精神的にもキツい環境でした
そんな農業が好きじゃなければ続けられないような環境で気づいたのは
野菜を育てること、観察することの面白さ。
これを多くの人が知ってくれたらいいなぁと思います。
また、農業の研修は1つの場所で長くやるのが普通なのですが、
どのようにやっているか見たくていろんな場所で研修を受けてきました。
埼玉、愛知、徳島、千葉辺りに行ってきました。
それぞれ特徴があって面白かったですね。
(↓農園を紹介してくれた後輩。2人で穴を重機使わないで掘ったりしたなぁ…)
そんな農業研修時代を送った後、移住先を求めて西日本を中心に旅している時に、元から興味があった高知でブロガー育成合宿を機に高知へ移住して今に至ります。
高知時代
僕が大切にしている、自分らしく生きるということ

今まで僕の人生をざっと振り返ってきたのですが、実を言うと僕は自分に合っていないと思ったこと、嫌なことからずっと逃げてきたんですよね。
自分の好きなことを探したり、やったりするのに、逃げることや辞めること、離れることはありだし、むしろそういうことが必要なんじゃないかと思っています。
選んだ道が1発目で自分が本当に行きたい、歩みたい道である可能性って結構低いと思いますし。
いろんなものに手を出してみて違うと思ったら、辞めるたりして他のことをしてみること。
逃げることや辞めることなどに寛容な世の中になって欲しいなぁと。
いろんなことに手を出してみて、自分を知ることが自分らしく生きることになるんじゃないかなぁと思っています。
人との関わり方が変わってきた
僕は小学生の頃にイジメが原因で人が苦手になって、人と関わるのを避けてきたのもあってコミュ症です。
田舎の学校で育ったのもあって、小中高校の友達はかなり少ないんですよね。
大学に入った頃は話を聞いていろいろ考えてから話すので、1テンポどころか2、3テンポ遅れてボソッと話す感じでした。
高知へ移住してきていろんな人と話す機会が多くなってきて、人と話すのは楽しいなぁと感じるようになってきました。
本日の一枚。#だいちハウス #いろんな人に #あえる場所 https://t.co/Sa4jWypN65 pic.twitter.com/i8Ng3MiF84
— 矢野大地 (@123Vaal) 2016年8月21日
看板立ちました〜!
これでみんなも迷わず来れる😁 pic.twitter.com/dLCJ7nBbtk— だいちハウス (@daichi_house) 2016年8月2日
今日はハヤシはうす(@dxxb1212 )にホームステイ中(^∇^)
えんたくさん(@Entaku98 )の作ったおイモで、ハヤシくんの彼女のあやかちゃんとケーキ作ったよ☺️🍰🎂 pic.twitter.com/5tL2j2j0LP— さとうひより🐑 (@hi4r1_xo) 2016年10月10日
僕は話すよりも、かなり話を聴く側ですがこれは大きな変化なんです。
健康に対する思い
僕は食べるものや健康に関することにけっこう気を使っています。自然栽培で育てた野菜を食べたいから育てるというところにも繋がるところがあります。
やはり大きいのは小さい頃に病気で父を亡くしたことですね。
父は僕が小学1年生になってすぐの4月に心臓病で亡くなりました。
32歳という若さで亡くなったのです。
原因はストレスと食生活だと思われます。
サラリーマンとして働き、タバコと酒はガンガン、脂っこいものが大好きだったと母が言っていました。
しかも父親の弟も同じような生活をしていて同じ心臓病で28歳の若さで亡くなったと聞いています。
その血が流れている以上僕自身も早く死ぬかもしれない。
そんな恐怖が頭のどこかにあるのかもしれません。
その為僕は健康に気を使っています。
世間で言われているような健康法を自分の体で人体実験したりしています。
最近の感じで言えば菜食中心で1日2食ぐらいの方が体調がいいですね。
ただ、健康を多くの人に考えて欲しいと大学生の頃は行動をしていたのですが、自分が思っていることを押し付けるのは良くないと思い、健康に関して人に強く言うのは辞めました。
この時の経験から自分の意見を押し付けることは良くないし、自分で変わろうとしないと人は変わらない、人を変えるのは楽しさや憧れだと実感。
無理に自分の意見を押し付けるのではなく、相手の話を深く聴いてどうしたいかを一緒に考えるようになりました。
家族の事

父親が病気で亡くなったと書いたので家族のことでも。
僕は家族との関わり方を結構考えています。
最近で言えば基本的に連絡はとらず、家族全員の誕生日を覚えているのでその日は電話するという感じ。
人生の大半を一緒に過ごして、価値観を共有している、家族との関係や価値観は自分を知る上で大切なものだと考えています。
また妹と仲がいいというか、よく電話で話すので妹の話もブログに書いています。
よく電話をするので、妹から聞いた話から、女性の生きづらい世の中や価値観に関してもブログに書いていこうと思っていたり。
妹と話していてよく思うのが「毒親」という存在。
田舎で暮らしたい

僕は基本的に田舎で生活したいと思っています。
都会の人混みが苦手というのもありますが、福島県の標高約1000mの山奥育ちで、自然に囲まれた、田舎を通り越した山奥という環境で育ったからというのがあるのかもしれません。
自然栽培に行き着いたのは自然と共に生きたいと思ったから。
何より、田舎に住んでみて思うのですが、食べ物が美味しい。
これが大きいかもしれません。
性格

小さい頃から欲しいと思うものが少なく、物欲もあまりありません。
母いわく、子どもの頃にあれが欲しい!と泣き叫ぶこともなく扱いやすかったそうです。
喜怒哀楽があまり表に出ず、穏やかな感じです。
そういった性格のためか、女性からは「安心感がある」「癒し系だよね」「オカン的なものを感じる」などと言われます。
大学生の頃に、なんでもポジティブに考える癖をつけていたのが習慣になって、何事もポジティブに考えます。
どんな時でも、「なんとかなる」と思ってますし。
自分の性格というか強みが丸わかりなストレングスファインダーをやったんですよ
強みで出てきたことで僕に当てはまるところをざっとまとめると
・最上志向…強みを生かしたいと思うし、相手の強みに惹かれる。
・未来志向…未来どうなるかを考えるのが大好きで、未来のことばかり考える。
・親密性…他人と打ち解けるのに時間はかかるけど、1度仲良くなった人との信頼関係は強く結ぶし、人を大切にする。
<
b>・着想…結びつき、関連付けで考えることが多い。
・戦略性…このルートや選択肢を選んだらどうなる?と考えることが多く、未来志向とかぶるところがある。
趣味趣向
猫が病的なまでに大好きです

和のテイストのものが好きです
見ること、観察することが好き
野菜や自然界を見ること観察することが好きなのですが同時に人を観察することも好きです。見るだけでなく、なぜこうなのか、こうするのかを考えるのも好きです。人と距離をおいたりして黙ったりしている時はだいたい考察をしています。

遠藤 拓也(えんたく)

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